〈歴史〉明治維新の息吹を感じて、歩く。 — 幕末のうごめき編 —
古代から日本の西の要所として長い歴史がある太宰府のまち。現代に至るまで幾度となく歴史の重要な舞台となってきました。幕末から明治にかけての激動期においても、脚光を浴びたことをご存知でしょうか?ここでは、幕末に活躍した勤王の歌人・野村望東尼の研究者である谷川佳枝子さんと、当時の面影を探してそぞろ歩きしました。
そぞろ歩いた人
歴史家谷川佳枝子さん
福岡市生まれ。九州大学文学部国史学科在学中に、野村望東尼の研究を始める。
太宰府天満宮宝物殿で行われた企画展「明治維新百五十年 太宰府幕末展」を監修した。
なぜ太宰府だったのか?
- 幕末に興味がある人でも、太宰府が明治維新で重要な役割を果たした土地であることを知る人は少ないように思います。太宰府ではいったい何が起きたのでしょうか?
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谷川
何より大きな出来事は、五卿が京都から太宰府に移って来られたことでした。五卿とは尊王攘夷派の公家5名のことで、彼らが太宰府に滞在したことで、多くの志士たちがこの地を訪れました。当時太宰府を訪れた人物には、西郷隆盛や坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文などそうそうたる志士たちが名前を連ね、この地で日本の未来が胎動していたと考えられます。
- 谷川さんは、五卿が太宰府へ来られることになった理由の一つを「和魂漢才碑」に見ることができるとおっしゃっています。いったいどういうことでしょうか?
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谷川
“和魂漢才”とは、大陸の文化(漢才)を取り入れつつも、日本の心(和魂)を失わない、菅原道真公の思想を表すものとされています。
この和魂漢才碑が建てられたのは幕末の安政5年(1858)で、既にペリーが来航した後。国内では、幕府を支持する“佐幕派”や天皇にひたすら忠義を尽くす“勤王派”、天皇を尊び外国を退けようとする“尊王攘夷派”などに政治勢力が分かれていた時代です。このような大きく社会が動く時代にこそ、道真公の御墓所である太宰府で、“和魂漢才”の精神を復興するための石碑を造営しようと計画した人たちがいたわけです。
発起人は、薩摩藩士や、天満宮参道にある同藩の定宿「松屋」のご主人・栗原孫兵衛さんたちです。日本古来の文化に立ち返ろうという彼らの考えは、天皇を尊ぶ思想と結びついていました。もともとこの地には、五卿をお迎えする精神的な土壌があったのでしょう。日本全土に迫るめまぐるしい時代の変化をひしひしと感じながら、いったいどのような気持ちでこの碑を建てたのか、思いを巡らせてみるのもいいですね。
太宰府になら行ってもいい
- 続いてやってきたのは延寿王院です。太宰府駅から参道をまっすぐに進んだ正面にあるお屋敷ですね。現在は立ち入ることができませんが、実はここが歴史の大切な舞台となったそうですね。
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谷川
先ほどから少し時代が下って文久3年(1863)。8月18日に起きた政変で失脚した三条実美(さねとみ)をはじめとする7名の公家(七卿)が、京都から長州に下ります。しばらく滞在したものの長州にいられなくなり、そのうちの5名が九州へと渡ることになります。彼らが五卿です。
この時幕府と長州の仲立ちをした福岡藩主の黒田長溥は、いったんは五卿を太宰府に迎え入れましたが、急進派であった彼らが尊王攘夷派のシンボルとなることを恐れ、九州の各藩にバラバラに滞在させようと考えていました。ところが、五卿は別々の場所へ行くことを頑として受け入れなかったそうです。そこで結局は、彼らをまとめて太宰府に落ち着かせることになりました。
京都を追われたとはいえ、大変高貴な方々ですから、滞在するにはそれなりの場所が求められます。また、神社であれば政治の舞台からは少し離れているので、謹慎する場所としてよいと考えられたのかもしれません。太宰府天満宮の宮司のご先祖である大鳥居信全は、自身の居宅であった延寿王院に五卿を迎え入れました。三条実美自身にも、太宰府であれば行ってもいいと考える理由がいくつかありました。実美の父が大鳥居信全のいとこであり、もともと親交があったこと。そして、生涯、天皇に忠誠を尽くされた菅原道真公の御墓所があること。さらには、道真公もまた、京都を追われ太宰府に流されて来たということに自らの境遇を重ねられたのかもしれませんね。のちに道真公は汚名をそそいで神様になられたわけですから、自分たちもまた必ず返り咲くぞというお気持ちもあったのでしょう。
このような様々な要因から、五卿が太宰府へいらっしゃることになりました。
アイドルがやってきた!
- それから太宰府は、幕末の政局の重要な役割を果たすのですね。
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谷川
五卿が太宰府に来られたことで、多くの志士たちが様々な情報を持って集まるようになりました。五卿到着から10日あまりで、さっそく西郷隆盛がやって来ます。翌年、西郷が大久保利通に宛てた手紙には、五卿が“王室を起こす”、すなわち天皇中心の政治を実現するのに重要な存在だと書いたものが残っています。坂本龍馬も、のちの薩長同盟のアイディアを持ってきて三条実美から賛同を得ようとし、桂小五郎を紹介してくれるよう請うたそうです。当時はまだ薩摩藩と長州藩が犬猿の仲だった頃。この面会に立ち会った五卿の一人である東久世通禧が、「坂本龍馬は偉人であり、奇説家である」と書き残しています。まるでドラマのようなことが起きていたのですね。
五卿の滞在により、延寿王院は、九州や長州にいる勤王思想を持った志士たちの、心のよりどころのようになっていたのだと思います。いかにそれが特別な出来事だったのかを伝えるエピソードがあります。私の研究の専門は、歌人として活躍した野村望東尼という女性なのですが、勤王家としても活躍した彼女にとって、五卿は憧れの存在でした。天神さまの御縁日の参拝、実母の病気平癒のために千度詣でをするなど、天神信仰に篤い望東尼にとって、五卿が太宰府に来られたことは「都の春をひきよせたる心地」がすることであり、念願がかなって面会した時には、三条実美の美しい顔立ちに源氏物語の光源氏を連想したと興奮気味に語ったほどでした。まるでアイドルが自分のまちへやってきたようなものだったのでしょう。沸き立つような気持ちが伝わってきますよね。
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ほかにも、延寿王院の山門越しに大きな「五卿遺蹟碑」が見えるでしょう? 山門の隣には、七卿の都落ちの様子をレリーフとして刻んだ「七卿西竄記念碑」という石碑もあります。実はそれぞれ、五卿が太宰府に来られて70年と50年の大祭が行われた時に建てられたものなのです。
特に昭和10年(1935)に行われた70年大祭においては、地元の方の回想によると、三味線や太鼓が鳴り響き、たくさんの人出があったとか。70年たっても賑やかにお祝いするくらい、地元の方々にとって五卿は、崇敬の対象であると同時に、親しまれる存在でもあったのです。
幕府も佐幕派も勤王派もいりみだれ
- 参道がもうそこですね。ここにも幕末の歴史が残されているとか。参道沿いの梅ヶ枝餅屋さんやお土産物屋さんも、当時は宿屋を営んでいたのですよね。
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谷川
先ほどお話した五卿が太宰府に来られることになった理由の一つに、五卿の家来や警護役などの様々な任務を帯びた800名余りの各藩からの侍たちが滞在できる場所が必要だったことが挙げられます。太宰府はもともと多くの人々が参拝に訪れるための宿もありましたから、その点でもピッタリでした。
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さぁ、松屋さんに着きました。松屋さんは薩摩藩の定宿で、西郷隆盛も泊まったそうですよ。奥に美しいお庭があるのでお邪魔しましょう。最初に見た「和魂漢才碑」の発起人の一人が、こちらの当主・栗原孫兵衛さんでした。おそらく多くの勤王の志士たちとの交流の中で、思想を育んでいかれたのでしょう。お庭に、月照上人の歌碑があります。月照は、安政の大獄の際に京都を脱出し、西郷隆盛を頼って薩摩藩へ行く途中、太宰府に立ち寄り、松屋に泊まっています。
ことの葉の 花をあるじに 旅ねする
この松かげは 千よもわすれじ月照はこの宿に滞在した時、心温まる言葉を交わして、日頃の憂さを忘れることのできる時間を過ごしたのでしょう。この歌で、松屋でのことはずっと忘れはしないと詠んでいます。
月照はその後、先行きを悲観して錦江湾(鹿児島)で入水し不運な最後を遂げますが、この歌は今日まで松屋さんで大切に守り継がれています。
歴史の随所に登場する太宰府
- きっと当時は、この参道をたくさんの志士たちが歩いていたのですね。不思議な感じです。
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谷川
それこそ、松屋さんは薩摩藩の定宿でしたが、お隣の大野屋さんは長州藩、お向かいの日田屋さんには幕府の侍たちが泊まっていたそうです。いろんな思惑を持つ人たちがここに集まっていたのです。時々刻々と情勢が変化する中、複雑な人間模様が渦巻いていたはずですよ。
- その頃の太宰府天満宮はどんな場所だったのでしょうか?
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谷川
江戸時代は庶民にまで天神信仰が浸透しており、天神さまは学問の神様としてはもちろん、手習いや至誠の神様としても広く親しまれていました。太宰府天満宮に参詣して、近くの名所旧跡を巡ることは「さいふまいり」と呼ばれ、多くの人々にとっての楽しみでした。誰もが訪れる場所だったからこそ、勤王の志士たちも訪れやすかったのでしょう。一種の治外法権のような場所だったのかもしれませんね。
- それにしても太宰府では、いろんな歴史的イベントが起こりますね。
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谷川
たまたまではなく、道真公がお鎮まりになる聖地だからではないでしょうか。三条実美も、道真公を慕ってやって来られました。この地で勤王の思想が育まれたのも、道真公の和魂漢才の精神があったからでした。道真公の存在が、他の土地ではなく太宰府を選ばせてきたのかもしれません。
五卿が太宰府に滞在したのは3年間でした。京都に戻った後は、三条実美が太政大臣を務めたのをはじめとして、どの方も明治新政府の中枢で活躍をされています。ふだんは太宰府と明治維新の関係がクローズアップされることは少ないのですが、実は、天満宮の宝物殿には、五卿に由緒のある品が展示され、関連書籍も紹介されております。ぜひお参りの際にお立ち寄りください。
そして皆様には、境内や参道を実際に歩き、幕末の息吹を感じていただければ幸いです。
書籍
「太宰府幕末記 ―五卿と志士のものがたりー」
太宰府天満宮文化研究所 編(宝物殿にて販売中)
— 今回そぞろ歩いた場所
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和魂漢才碑
大陸の文化(漢才)に精通しつつも、日本の心(和魂)を失わないようにという、菅原道真公の思想を表すと言われています。安政5年(1858)、道真公の末裔である菅原為定の書で、「松屋」当主の栗原孫兵衛らを発起人として、平田銕胤ほか多くの学者や志士によって建てられました。
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延寿王院
江戸時代、大鳥居(宮司)家の宿坊で、慶応元年(1865)から約3年間に亘って五卿が滞在し、その間西郷隆盛、坂本龍馬ら多くの志士たちが訪れました。敷地内には、五卿を顕彰する「五卿遺蹟」の碑が立ちます。
※一般非公開 -
七卿西竄記念碑
文久3年(1863)、尊王攘夷派であった七卿が京都を追われ、西竄(西へ逃れること)する様子を伝える碑です。碑には、箕笠をまとった七卿とそれを警固する甲冑の志士たちの姿が彫り込まれています。
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茶房 維新の庵 松屋
幕末の頃は薩摩藩の定宿で、西郷隆盛が宿泊した部屋が残されています(非公開)。現在では、土産物や梅ヶ枝餅の店として賑わっており、庭では月照上人の歌碑、店内では西郷隆盛や大久保利通の手紙を写真で見ることができます。
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太宰府天満宮 参道
西鉄太宰府駅から、全長およそ400メートル続く参道は、かつては「さいふまいり」に訪れる人たちの宿が左右に建ち並んでいました。現在では90軒あまりの店が軒を連ね、観光客や参拝者で賑わっています。