御祭神 菅原道真公比類なき御功績を残された御生涯
学問の神様、文化芸術の神様、厄除けの神様と仰がれる菅原道真公は、
御生涯を通じて素晴らしい御功績を残されました。
学問で朝廷に仕える家系にお生まれになられた道真公は、幼少よりその才能を顕されます。5歳にして和歌を、11歳で漢詩(月夜見梅花)を詠まれ、その詩歌には目には見えない音や気配までもが見事に表現されています。
「月夜見梅花」
- 原文
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月耀如晴雪(月の耀きは晴れたる雪の如し)
梅花似照星(梅花は照る星に似たり)
可憐金鏡転(憐れむべし金鏡の転ろきて)
庭上玉房馨(庭上に玉房の馨れるを) - 意訳
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輝く月は晴れた日の雪のようで
花咲く梅花は輝く星に似ている
なんと素晴らしいことだろうか
金の鏡のような月が移るにつれ
庭の玉のような白梅が香る
『菅家文草』に所収
その後も日夜学問に励まれ、学者としても、政治家としても、卓越した力量を発揮されます。26歳の若さで最難関の試験「方略試(ほうりゃくし)」に合格、33歳にして学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に任じられました。
その姿勢は、常に至誠一貫としたもので、42歳で讃岐守に任じられた際には、疲弊した民の暮らしを目の当たりにし税制度の見直しが必要と洞察され、後に抜本的な改革を成し遂げられました。その後も数々の役職を歴任する中で、いち早く世界情勢を察知され、50歳の時に長年続いた遣唐使の停止を提言されました。道真公の一連の改革は、後の国風文化の礎となり、国のあり方にまで大きな影響を及ぼしました。
道真公は、宇多天皇の絶大な信頼を得て、学者としては異例の右大臣の栄位を極められます。ところがそれを妬んだ藤原時平の策謀により、いわれのない罪で突然大宰府へと左遷されるという悲劇に見舞われます。大宰府で衣食住に事欠く不遇の境地にあってもなお、国の平安を一心に祈られた道真公は、延喜3年(903)2月25日、大宰府にて59年の清らかな御生涯を閉じられました。
道真公の御遺骸を牛に牽かせていたところ、にわかに伏して動かなくなりました。これは道真公の思し召しであろうと、門弟味酒安行によりこの地に埋葬され、現在の御本殿の位置に祀庿(しびょう)が造営されました。
以来、菅原道真公は「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」、すなわち天神さまとして仰がれており、太宰府天満宮は天神信仰の聖地として、いまなお多くの人々の心のよりどころであり続けています。
※古代は「大宰府」、中世以降は「太宰府」と表記しております。
学者としてのお姿
我が国は、古代より朝鮮半島や中国などの大陸からもたらされた技術や制度を取り入れ、政治や法律、文化の興隆に役立てていました。ところが道真公が生きられた平安時代初期は、藤原氏を中心とした貴族が勢力を増し、中央と地方の格差が広がり、国政にほころびが見え始めた時代でした。そのような中、時の嵯峨天皇は、日本の再建には学問の力が必要であるとお考えになられ、学者の家系である菅原家がその一翼を担っていきます。
学問で朝廷に仕える家系にお生まれになられた道真公は、幼い頃より勉学に励み、33歳で文章博士という学者としての最高位に就かれます。当時の国家事業であった国史の編纂にあたって高い学識を発揮され、六国史の一つ『三代実録』に編者の一人として携わられました。そして日本書紀に始まる六国史のすべてを、それまでの編年体ではなく、項目ごとに編集した日本における初の百科事典である『類聚国史』を編まれました。この書物は、当時の災害や流行病などに先人たちがどのように対処してきたか知ることができる、大変貴重なものです。
また、日本独自の文化である和歌を漢詩に訳した『新撰万葉集』も編纂されました。これは菅家万葉集とも言われ、単なる翻訳ではなく海外へ日本文化の本質を伝えるべく、和の心を漢字に当てはめ表現したものです。道真公が日本のみならず、大陸の文化にも精通していたからこそ成しえた偉業であり、周辺国との文化交流を深めた御功績でもあります。
日本が独立した国としてあるために、学問がどのようにあればよいかを求め続けた真摯なお姿が見えてきます。
教育者としてのお姿
道真公は教育者としての一面もお持ちでした。私塾である「菅家廊下」では、多くの門下生が勉学に励み官僚として活躍し、一大学閥として名を馳せます。
また書写音読が主流であった当時にあって、画期的な教育方針を採りました。道真公は、学問の手法について以下のように記しています。
「書斎記」より部分
- 原文
学問之道
抄出為宗
抄出之用
藁草為本- 書き下し
学問の道は
抄出を宗とし
抄出に用いるは
藁草を本とするように
『菅家文草』に所収
抄出とは「抜き書き」、藁草とは「カード」です。重要な言葉をカードに抜き書きすることは、現在ではよく知られた学習法ですが、当時としては革新的な方法でした。個人の知識を多くの人が共有することができるようになり、この手法があったからこそ『類聚国史』の編纂が可能になったと言われます。
自らの「勉学」を、社会のための「学問」へと発展させるという道真公の姿勢は、後に幕末の吉田松陰ら国学者が「実学」と呼んで倣ったものでもありました。道真公は教育者として、我が国の教育の進むべき道をお示しになられました。
政治家としてのお姿
政治家としての道真公が挑まれたのは、国家的な財政難と、最大の社会問題であった疫病と貧困の解決でした。讃岐守として現在の香川県に赴任し、過酷な労働や重税に苦しむ人々を目の当たりにされた道真公は、飢饉に見舞われれば国庫の米倉を開放し、干魃が起きれば雨乞いをし、人々に寄り添った政治を行いました。
ここでの御経験を御心に刻まれ、任期を終えて京に戻られるとすぐに、税制の改革に乗り出されます。それまでの人頭税(国民一人ひとりに納税義務があること)を土地税(土地に応じて税を納めること)に変えることで、身分に関係なく土地に応じた均等な納税制度へと改革したのです。また、その税の納入を地方の国司に請け負わせることで、財政は回復し貧困に苦しむ民が救われました。
また度重なる内乱により荒廃していた当時の唐の情勢を鑑みて、長年続いてきた遣唐使の停止を提言されたことで、我が国独自の法律と文化が形成されることになりました。これは、後に国風文化が花開くきっかけともなりました。
民のことを想い、国をより豊かに発展させるために改革に取り組んだ道真公は、政治家として右大臣という栄位を極められます。
誠実なお人柄
道真公は、学問の道でも政治の道でも、真摯な姿勢を貫かれました。御自身の栄誉や出世のためではなく、第一にこの国のあるべき姿を考え、民の声に耳を傾けるお姿は、宇多天皇に続き醍醐天皇からも絶大な信頼を得るに至ります。しかし、時の左大臣藤原時平の策謀により、いわれのない罪を着せられ、大宰権帥として大宰府の地に左遷させられます。
大宰府での暮らしは過酷なものでありましたが、そのような境遇の中でも、道真公は天を恨まず人を憎まず、当時のお気持ちを詩に残されています。
「九月十日」
- 原文
去年今夜侍清涼
秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拝余香- 書き下し
去年の今夜 清涼に侍す
秋思の詩篇 独り断腸
恩の御衣 今此こに在り
捧持して毎日 余香を拝す
『菅家後集』に所収
また、大宰府の南にある天拝山に登っては、七日七夜に亘って国家の繁栄と皇室の安泰を祈られたと伝わります。いつか御自身の疑いが晴れることを願いつつ、延喜3年(903)年2月25日、再び京の土を踏むことなく、59年の清らかな御生涯を閉じられました。
人々の心に生きる天神さま
天神さまとしてご崇敬を集められるようになった道真公は、その御生涯から、己の信じる道を歩もうと努力するすべての人に寄り添う優しい神様として、1,100年以上に亘り慕われ続けています。
農民には恵みの雨をもたらす「雷様」として。不条理なことが蔓延る時代には「正直の神様」「至誠の神様」として。寺子屋では「手習いの神様」「子供の守り神」として。自らの信じる道を誠実に歩まれた天神さまは、現代では「学問の神様」「文化芸術の神様」「厄除けの神様」として、あらゆる人々から慕われています。
「さいふまいり」という言葉に表されるように、天神さまを慕い、当宮を訪れる方々の波は絶えることがありません。今ではその御神徳は国境を越え、海外各地から多くの方々がご参拝に訪れています。